ワインをグラスに注いだとたんに立ち上ってくる香り、口に含んだ時の味わいや余韻から、そのワインの材料となったブドウが育てられた土地の情景や気候までもが脳裏に浮かんでくる…なんてのはさすがに漫画の中の世界だけの話だと思う。しかしワインの香りや味に、ブドウが育った土地の特徴が大きく影響するというのは確かな事実でもある。
ワインはブドウから、ブドウは葡萄の木から生まれる。葡萄の木に限らず樹木というのはなんでもそうだが、植えてから一年や二年でいきなり立派な実をつけたりはしない。何年、何十年もかかってようやく立派に育ち、質の高い実を付けるようになる。土の表面だけでなく土壌の奥深く、さらにその奥にある岩盤にまで根を伸ばし、ミネラルを多く含んだ地下奥深くの水を吸い上げて育ったブドウから作られたワインは、単なる「栄養価の高い肥えた土」で育ったブドウから作られたワインよりもずっと複雑で奥の深い味わいを持つ優れたワインになるという。
ワイン用のブドウを育てるために必要な土地とはどんな土地か、ということについて複数の文献でおおむね統一して使われているフレーズが、「岩盤がむき出しの痩せた土地」といったやつだ。そういった土地を探すとなると、ヨーロッパに比べたときに日本は大きなハンデを背負うことになってしまう。
ヨーロッパは大陸だから、かつては海中だった場所が何万年もかけて隆起して地上となり、さらに何万年もかけて風雨に侵食されて岩盤がむき出しになっているような土地が数多くある。「岩だらけの土地」なんて生易しいものじゃなく、その地域全体がひとつの岩で出来ている、そんな土地がゴロゴロあるのだ。そういった土地を切り開き岩を砕いてブドウを植え、長い年月をかけてブドウ畑が育てられている。
一方で日本列島は、ヨーロッパ大陸に比べればはるかに若い。火山の噴火によって降り積もった火山灰に覆われた肥沃な大地が広がり、「岩盤がむき出しになった場所」なんてのはほとんど存在しない。もともとワイン作りには向いていない土地なのだ。しかし、勝沼のようにいくつもの急流が合わさって大きなひとつの扇状地を形作っているような場所だと、急流で土砂が流されて瓦礫が地表に出てきている場所がある。こういう場所はワイン作りに向いているのだという。
勝沼の中でも「中原地区」と呼ばれる南向き斜面にある、中央葡萄酒の持ち畑。山沿いの川が流してきたガレキがゴロゴロしている。写真は中腹あたりなのでまだ岩も小さいが、もっと上の方に行くと背の高さくらいある岩が普通にあるという
ここ数年で国産ワインの人気が高まっており、また世界的にも認められ始めている甲州ワインの産地でもある勝沼。これだけ見るとさぞ順風満帆、そこらじゅうのブドウ畑でワイン用の品種が増産され続けているみたいなイメージを持ってしまうが、現実はそんなに甘くない。日本各所で農業が抱えているのと同じ問題を、勝沼もまた抱えている。後継者不足による耕作放棄地の増加だ。
垣根に伝って樹の枝が伸びているだけに見えるブドウ畑だが、自然気ままに成長するだけでそんな形になるわけはない。絶え間ない人間の手が入って初めて、畑は作物を収穫できる「畑」として機能する。人の手が離れると、あっという間に畑は様々な植物が秩序なく生い茂る藪と化してしまう。一度そうなるともとに戻すのは用意なことではない。人の手が入っていないただの土地よりも、むしろ手間がかかるくらいなのだ。
三森農園のすぐ近くにある耕作放棄地。樹の枝を伸ばすための棚やそれを支えるための杭も半ば崩れてしまい、足を踏み入れるのも難しい藪になってしまっている。これを畑に戻そうとすると、重機を入れて大掛かりな工事をして崩れかかった棚を撤去するところから始めないとならない
良質なワイン産地として注目を浴びている勝沼でさえ、耕作放棄地の増加という問題とは無縁ではない。高齢化などによって畑を維持できなくなり、手を入れられないまま放置されてしまっている畑は数多く存在している。それらは、「畑にできる場所が無駄になっている」という問題だけでなく、害虫や病原菌の発生場所になってしまうなどのアクティブな害悪にもなる。
いろいろな取り組みがされている。有名なのは放牧地への転用だ。今、Wikipediaで「耕作放棄地」の項目を見たら、熊本県にある酪農関連施設による「耕作放棄地放牧のすすめ」なんて資料へのリンクが張られていた。雑草が生え放題になって手に負えなくなった土地を電柵で囲って牛を放つことで、雑草を食べて処理してもらうというものだ。牛を購入して本格的に放牧を始めるのが予算的に厳しいところ向けに、牛をレンタルする事業、名づけて「レンタカウ」なんてのもあるのだとか。
元耕作放棄地で草をはむレンタカウ達。一つ上のジャングルみたいになった耕作放棄地も、牛を入れることで短期間でこれだけまともな状態に戻せるのだという
良いブドウを作る畑にはそれなりのお金を出す、というのも有効な手段だ。この記事の上の方で触れた中央葡萄酒の持ち畑なんかはその一例。南向き斜面にある岩がゴロゴロ転がったぶどう畑では良質な甲州種ブドウが収穫できる。普通、甲州種はそれほど高く売れる品種でもないため、雨避けの袋などいちいちかけたりしないのだが、ここでは手間をかけて袋かけをしている。「たかが甲州種」にそんな手間をかけられるのも、中央葡萄酒が「この値段で買取る」と事前に約束しているからだ。まあ、その分だけワインの値段も高くなってしまうのだが…。
南向きのなだらかな斜面がどこまでも続くという、ぶどう畑としては絶好のロケーションにある中央葡萄酒の持ち畑。写真は収穫後なので、地面にたくさん袋が散らばっているのが見える。