銃を人に向けて撃てば死ぬかも知れない

発砲2警官に無罪=男性死亡の付審判―奈良地裁

毎日新聞. (2014年12月4日). オリジナルの2014年12月9日時点によるアーカイブ。

警察官の発砲自体はそれほど珍しいことでもなくなってきてるし(それをしなければならないような事件が起こるようになってきてるってことは残念だが)、たいして大きなニュースになるようなことも少なくなってきてはいるのだけれど、この件に関してはけっこうあちこちで報道を見かけることが多い。ほかの警察官発砲とどこが違うのかというと、「発砲に正当性があったかどうか」が何度も法廷で問われてきたってところだろう。

事件の概要はリンク先を含め、あちこちの報道で詳細に述べられてるが、簡潔に言うと「車上荒しの通報を受けてかけつけた警察官の職務質問を振り切って、衝突など交通違反を繰り返しながら逃走していた男二人が乗った自動車が、追いつめられてパトカーに取り囲まれた状態でなおパトカーに衝突を繰り返し、急発進するそぶりを見せたため警察官は発砲、そのうち2発が助手席の男に当たり死亡した」というもの。自動車を止めるのに助手席の男を撃つ必要はないわけで、発砲は殺意を持って行われた不当なものだ、というのが訴えた側の理屈らしい。

裁判での争点の一つに、「殺意があったかどうか」というのがある。「未必の殺意」っていう聞きなれない言葉が出てくるので改めて定義を調べると、「自分がその行動をすることで相手が死ぬかも知れないということを認識した上で、その行動を行った」場合、未必の殺意があったのだということになるのだとか。

なんで、これが争点になるのかわからない。
そんなもん、あるに決まってるじゃないか。

人に向けて銃を撃ったら、相手が死ぬかも知れないなんてことは子供でもわかることだ。逆に、人に銃を向けて、相手が死ぬなんてことは露程も思わないで引き金を引くような人がいたら、そんな人に銃を持ってもらいたくないし、ましてや警察官になんてなってもらいたくない。「自分の射撃技術は非常に優れており、どんな状況であっても確実に急所を外し、かつ対象の行動を確実に止めることができる精密な射撃を行うことができる」なんていう、あまりにも現実離れした、夢想や妄想に近い根拠なき自信を持った人間が、仮にも警察官という責任ある職務につくことが許されるはずがない。

人に向けて銃を撃ってる以上、当然「相手が死ぬかも知れない」ってことは認識しているはずだ。してもらわなきゃ困る。銃ってものがどんな道具なのかってことを知っていれば当然のことで、それを「未必の殺意」と呼びたいのならば呼べばいい。

で、それでなんの問題があるのか?

警察官は、その職務として条件を満たせば「人に向かって銃を撃つ」ことが法律で認められている。しつこくて申し訳ないが、「人に向かって銃を撃てば死ぬかも知れない」なんてことは子供でも知ってる当たり前のこと、つまり警察官とは、「殺意を持って人に銃を向けて引き金を引く」ことが、条件付きながら法律で許されている職業なのだ。

だから、警察官の発砲によって人が怪我したり死亡してしまったりして裁判になるとしたら、争点となるべきは「その発砲は、法律において発砲が許される条件をクリアしていたものなのかどうか」ということに絞られるはずだ。殺意があったかなかったか、なんてことはそもそも争点になんてなるはずもない。なぜなら、それはあって当然のことだからだ。それを踏まえた上で、「(未必の殺意を持って)銃を撃つことが許されるだけの状況だったのかどうか」が問題になるべきなのに…。

そんなのはどっかに行ってしまって、「発砲した警察官に殺意があったどうか」なんていうことが争点になってしまっている。

この裁判では、警察官は無罪になった。当時の状況が警察官職務執行法が定めた拳銃の使用要件を満たしているから、発砲は正当性のあるものだというごくあたり前の判決だ。だがそれと同時に、「未必の殺意」は無かったとされた。人に向かって銃を撃つという行為をした際に、「相手が死ぬかも知れない」なんてことはこれっぽっちも考えなかったということにされてしまったのだ。これは無茶な話だ。

「未必の殺意? そりゃもちろん、あったでしょう。それでなにか問題がありますか? 法律で定められた危害射撃の条件は満たしていますが?」という対応で、なぜいけないのだろう。

そうならずに、「殺意の有無」なんてピント外れなことが争点になってしまっている理由は明白だ。警察という組織自身が、「警察官が、人に対して殺意を持って銃を撃った」ということを絶対に認めようとしないからだ。警察官の銃は人に対して発砲されることはあっても、人の命を奪うことはない魔法の道具でなければならない、そういう誤った前提に縛られていることが最大の原因だ。

以前のエントリ(試合の後、とんぼ返りで銃検)でも書いたが、日本の警察官の射撃訓練というのはかなり「異質」なものになっている。訓練において人の形をしたペーパーターゲットを撃つ際に、狙うのは肩や腕、そして一番点数が高いのが手。頭とか胴体とかの致命傷となるエリア(バイタルゾーン)に弾を当ててはいけないというものなのだ。

これは、「治安維持のために銃を使用しなければならない職業」の人たちがやる訓練としては明らかに誤ったやりかたで、とんでもない非常識だ。発砲せざるを得ない状況というのは、「何をおいても犯人(と思われる人物)の行動を即座に停止させなければならない」という逼迫した状態なわけで(そうでないならそもそも銃など使わずにほっておけばいい)、そういう状態でやれ肩を撃て、足を撃て、できれば手を撃てなんてのは「できもしない無理な要求」でしかない。

だが、それをやれと言わなければならないのが日本の警察という組織だ。その理由は、先に書いたとおり、「警察官の銃は人の命を奪わない魔法の道具でなければならない」という誤った幻想に、警察自身および一般の人たちが囚われているからだ。

銃という道具は、人に対して使用されればその生命を奪ってしまう可能性が非常に高い道具だ。誰だって人を殺したくなんかない。もしSFに出てくるような麻痺銃みたいなものが実用化されていればそっちを使いたいだろう。けれどそんなものが現時点では存在しない以上、どうしようもない状況では銃を使わなければならない。銃を使わなければならない以上、相手を殺してしまうかもしれないという覚悟が必要になる。警察官というのはそういう仕事だ。

「銃を人に向けて撃てば死ぬかも知れない」、そして「警察官はそれを行うことが許されている職業だ」という当たり前のことをはっきりさせておきさえすれば、こんな訳のわからない裁判を起こされて当然の職務執行をした警察官が煩わしい裁判に時間を割かれることもなくなるだろうに、と思うのだが。

池上ヒロシ

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池上ヒロシ

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